INTERVIEW

インタビュー:Asami (CEO/Founder)

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自分らしく生きる、という教育を受けて

小さい頃から私は母親に、自分らしく生きることが正しい、と教えられてきました。母親自身は、男兄弟、両親が共働きという環境の中で「野生児」のように育ったのですが、そんなワイルドすぎる女の子の将来を心配した両親がお嬢様学校に入れるという決断をします。そこで母は全くと行っていいほど校風に合わず、問題児として扱われるようになったりする中で、えいや!とアメリカに飛び出しました。16歳の時だったそうです。そのアメリカでは、皆誰もが違って当たり前。自由。そういう環境で初めて羽を伸ばして自分らしく出来る、という体験をしたそうです。小さい頃、母親から何度もアメリカの話を聞いていました。とにかく日本という枠組みにはまらなくてもいいんだ、世界はもっと広い、そういつも言い聞かされて来たので、私は小さい頃から自然と世界を目指すようになっていました。

自由な環境を、個性を認めてくれる環境を、と渇望する中で、日本の中学校の中でも指折りに自由だと思われる女子学院に入学することが出来ました。憧れの学校に入学出来たのもつかの間、家庭の事情からすぐに休学をしばらくすることを余儀なくされました。またそのときには、自分が持っていたほぼ全てのもの、当たり前だと思っていたものが全てなくなりました。世界で私は一番不幸な子だ、とどん底に落ちたのを今でも覚えています。今考えると大げさだな、と思うのですが、13歳の感受性の豊かな女の子にとっては当たり前かもしれないですよね。そんな不幸まっただ中でふさぎこみこんでしまいそうな私に、周りの人が色々な本を貸してくれました。その中に、「マートブ」というイラン人の男性と結婚した女性が、自分と娘の命を守るために、大きな危険を冒しながらもイランを逃げていく、という本を読みました。また世界についてに情報が書かれた雑誌で、マンホールの中で暮らすストリートチルドレンの写真をたまたま見ました。

その時に、私は確信しました。自分がつらいと思っている以上に、世界はもっと広くて、もっともっと大変(今考えると、もっと、なんて考えるのはおこがましい話なのですが)な人もいる。そういう人たちのためになりたい、そう決心しました。

国連に入るためのチェックリスト

世界の人のために何かしたい!そう思った時に、国連という場所があると知りました。そして国連に入るぞ、と決めて、人生のチェックリストをつくりました。そのチェックリスト通りに、17歳には英国に単身留学をして高校を卒業、カナダのフランス語圏の大学に入学。大学在学中にはNPOの設立に関わり、大学院では教育学を勉強することが出来ました。大学院の在学中にはユニセフのガーナ事務所にてインターンシップに参加させていただき、大学院生の身でありながら予算をもらって新規事業を立ち上げて実行するチャンスまで頂きました。

社会人としての最初のキャリアは、ゴールドマンサックスでした。もともと自分は日本企業には馴染まない、ということを十分理解していたので外資、そして国連に入るためには、とにかく一番早く成長出来て、自分の足場が固められるところ、という思いからゴールドマンに行きました。また今まで自分は開発という業界しか知らなかったので、自分の全く知らない世界に入って、学んでみようとも思いました。とはいっても私は入社からずっと金融音痴のままでした。今考えるとあの時もっと努力していたら、起業した時に上場とは何なのかとか、会社のあり方とかもっと分かったのにな、と後悔しています。でも人と人とのつながりや、誰かの成長のためになりたい、という思いが強い私にとって、金融という業界は抽象的すぎて、頭がついていかなかったというのが正直なところです。

311がきっかけで、パキスタンに

315424_10100151212186497_1945291_nそんな中、311がおきました。六本木ヒルズの45階でとにかくすごく揺れました。そのとき一緒に地震の中でおしゃべりをしていたのが、普段他部署で色々とお仕事で接点があった方でした。その方は、外資系金融に入る前に自分で会社を立ち上げて頑張っていた、というお話をされていました。そういう世界もあるんだな、と、漠然と面白そう、と思ったのを覚えています。でもその時点では、まだ起業を自分のキャリアとしては考えていませんでした。ただ私が思ったのは、もしかしたら今この瞬間に自分の人生が終わるかもしれない、という中で自分はもっと他の場所で挑戦したい、ということでした。月曜日にはマネージャーに会社を辞めます、と告げました。全く後悔がありませんでした。2年でやめてしまうということが、世間的にマイナスに映るかもしれない、と思いましたが、人がどういおうと、私はゴールドマンで確実に他の人の3年分以上は学んだと自信があったんです。

ご縁があって、私はパキスタンで日本のNGOの新しい防災教育のプロジェクトを立ち上げる機会を頂きました。行く直前にビンラディンがパキスタンでつかまったり、なんだか大丈夫かな、と思う気持ちもありましたが、冒険家の私はとにかくワクワクして見ず知らずの土地に足を踏み入れました。そこは想像以上でした。観たこともないようなカラフルな色の現地の服に身を包む女性たち、危険だからと自由に歩くことが出来ずどこに行くにも車でDoor to Doorの毎日、初めてのイスラム圏。楽しいこともたくさんあった一方で、現地で仕事をする難しさにも直面しました。現地の視察にいくための車を手配するにしても、日本人、かつ女性の私が手配しようとすると現地の価格の2倍、3倍をふっかけられます。そんな中、現地で出会ったパキスタン人のチームメンバと皆で一つの目標に向かって皆で一丸となって、どんな困難も乗り越えて行きました。日本の本部のやりたいこと、現地ではそれが難しいこと、その擦り合わせの中で、新しい形を模索するのは、とても大変でしたが、チームの皆でとにかく一緒に頑張って、与えられた目標以上のことを達成しました。とはいっても、NGOなので、予算通りに計画通りにやればいい、というだけで、目標以上のことをやった、ということはそこまで評価されず、悔しくて、どこかでそこからビジネスというのを意識し始めたかと思います。

日本企業のチームにもっと多様性を、もっと新しい価値を

IMG_6265こういう貴重な経験を経て、私はとにかくパキスタンに恋に落ちました。もっとパキスタンのために何かをしたい、と思っていたところ、ご縁がありJICAの専門嘱託というポジションにつきました。大好きなカラチというところで、大きな予算・規模のプロジェクトをまかされ、ここでパキスタンにも日本にも貢献出来るんだ!とワクワクしたのもつかの間、色々と疑問に直面しました。まず計画を創るチームの中に、パキスタン人が1人もいなくて、日本人が集団で定期的に現地に出向いて調査・設計をしている状況でした。そういう中でどんどん調査コストはふくれあがるし、同時に本当にどこまでの日本のハイクオリティーさにこだわるべきなのか、という疑問も出てきました。日本企業の素晴らしい技術ももちろんあるけど、これからはそれをそのまま海外に出すのではなく、もっと現地の人と一緒に新しい価値を作り上げて行くことが大事だ、そんな風に確信するようになりました。

日本のチームの中にもっと多様性、外国人を、という思いで悶々としている時に、デスクに国際協力ジャーナルという雑誌がまわってきました。その中で、「今日本の大学は外国人留学生が増えている。彼らの多くが日本と母国をつなぎたいという思いがあるのに、そういう思いを持っている4人に1人しか日本で仕事が見つからない。」という記事を読みました。その瞬間に、脳に稲妻がはしったような、とにかく感動を覚えました。涙も出ました。そこからは持ち前の行動力と、良くも悪くも思い込み力です!色々な苦労もありましたが、アクティブ・コネクターを立ち上げることになり、たくさんの人に支えられながら、色々な人と一緒にこの活動を大きくしてきています。ビジョンを共有しながら、一緒に楽しく仕事ができるチームメンバーに出会いたいです。

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